自分は誰なのか、と考えている自分は誰なのか
Who are you, thinking about “who I am”?
「自分は誰なのか、と考えている自分は誰なのか。」 これはKusunoko-CIが小学生との時、押井守監督の『とどのつまり』というマンガを通して問われた質問でした。当時ずいぶんこの質問に魅惑されて、わからないことがとても楽しかった、少し頭のおかしい小学生でした。今ならはっきり言える、“メタ”であると!
そんなわけで今回は、「自我」というものを考えてみました。
自我とは
自我、と言われても結構ピンとこないですよね。いつものようにgoo辞書さんに教えてもらうと、
じ‐が【自我】 の解説
1 自分。自己。
2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。
3 心理学で、行動や意識の主体。自我意識。
神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。
という説明が載っていましたが、私がここで問題にしたいのは、主に1番目の話です。「自分・自己」ということに関してですね。もちろん自分という認識があるから、他人という認識も生まれ、そこに境界が生まれてくるわけです。そう意味では若干②番の哲学的な意味も入るとは思いますが、とりあえずは、最もシンプルに「自分」というものだとしてお話を進めていこうと思います。
自我の芽生え
何でこのことに少し興味がわいてきたのかというと、これがまたうちの息子に関してでして。
現在4歳ですが、いわゆるイヤイヤ期真っ盛り。魔の2歳児から悪魔の3歳児になり、天使の4歳なんて言いますけど、そんなことはないです。今もいったん「いや!」という気分にスィッチが入ったらもうとことん「イヤ」です。泣くは叫ぶは、地団駄踏むは。それもなにかしら自分に思うとことがあるようで、その「地雷」をパパママは知らずに踏んづけてしまうことがあるんですよね。そうするともう、なだめようがすかそうがもうひとしきり落ち着くまではずーーっとです。世のパパさんママさん、今日もお疲れ様です。
この時期の子どもが頻繁に「イヤ」と言うのはなぜか。
東大教授の遠藤利彦氏(発達心理学)によりますと、これは彼らの「自分探し」なんだそうです。
1歳半~2歳は、歩行や手づかみが可能になり、世界が一気に広がる。だが、初体験が多すぎて「わからない」と「本当にイヤ」が区別できないため、何でも反応が「イヤ」になりがちだという。でも、感情を大人にぶつけるやりとりを通じ、自分の欲求や意思を自覚し、周囲に伝えられるようになる。
とのことで大事な発達段階。見ていると思いますが、おそらく本人も何が嫌かわかっていない場面もあるのではと。うまく感情(情動)が識別できていないというか。で、感情を感じるままに放出して、周りの反応と共に自分の枠組みを形成していくんでしょうね。潜水艦がアクティブソナーをピンと打って反射してくるデータで、他の潜水艦との距離を測ったりするような。いやすごい分かりづらい例えでした。
とにかく、頭ごなしにダメとかいうのではなくて、どうしてなの? とか問いかけ、彼ら自身にも考える間と機会を与えていくことが大事なようです。とか言いますけど、難しい時はほんとムリですけどね。
自我の発達
ところがです。この自我の発達は、子どものみに見られる現象でもないようなんですね。最近読んだ苫米地英人さんの『イヤな気持ちを消す技術』の中でこんな記述がありました。
「あなたは、どういう人ですか?」と問われた場合、(中略)父親は誰で、母親は誰で、好きな食べ物は何で、(中略)そうやって自分で自分のことを定義したものが自我です。
つまり自我とは、宇宙のすべてのものを重要性の順番で並び替える関数のことなのです。
これなかなか面白いと思いませんか。自分の大事なものを優先順に並べていくことが自我の形成であるならば、大人でもこれができていない人、意外といるのではないかと。
この大事なものの際たるものが、私はいわゆる「Core Value」だと思っていますが、これをはっきりしっかり答えられる人、どれくらいいるでしょう?
苫米地さんは続けて、こうした重要度までもが、他者によって刷りこまれている事実を指摘しています。それはもちろんお気づきのように、マスメディアを通じて絶え間なく流されている情報に含まれている誰かの論理です。
私はここで陰謀論みたいなものを論じるつもりはありません(好きですけどね!)。ですが、苫米地さんも挙げられている車のCMの例なんか読んでいると、Ohh…って気になります。
まぁKusunoko-CI、そもそもテレビ見ないんですけど。
それにしたって、情報というものがある意図をもって流され、ましてCMなどは「買ってもらいたい」という明らかな目的のためにあるのですから、受け取る方は自分の頭で、よく考えてそれを吟味しなくてはと思います。信じられるのは自分自身のみなんです。
大事なものの違い
なので、個人個人大事なものが違っているのは全くもって当たり前。そうした優先順位やCore valueにはいいも悪いもありません。ですので、例えば何よりもお金が好きとか、どんなものよりも人に自慢できるものが最高の価値だ、という人がいたとしてもそれはそれで全く個人の自由ですし、尊重しなくてはいけません。それが彼・彼女の発達させた自我・自己というものですからね。
ただ、合う合わない、相性というのはあるでしょう。
先日、嫁と話していた時に面白いなと感じたことがありました。彼女にとって最も大事なValueの一つが、「愛する人たちに、愛しているという気持ちをいつも伝えること」というものです。Kusunoko-CI、特に異論はなく、私も出来ればそうしようといつも振舞っています。ただ彼女曰く「多くの日本人は恥かしがりすぎる」とのこと。まぁ同意します。そういう文化ですよね。
我々個人は、各々で今言ったようなValueというものを持ち合わせているわけですが、集団として住んでいる環境に影響を受けていることだってもちろんある。例えば日本人の場合、うち嫁の価値観=「愛を表現する」よりも、ずーっと高いところに位置しているのは「恥」の価値観ですよね。恥ずかしくってそんなことできないというあれです。
なので、国際結婚で男女が付き合う時、このValueの優先順位が時々食い違うことがあって、それが難しさを生むのですが。私はとても楽しんでいますけど。ちなみに、私たち夫婦の場合はとてもラッキーなことに、持っている価値観の優先順位が非常に近かった。国が違うのにも関わらずです。面白いもんですよね。一般的には、国際結婚の場合、皆さんとても苦労されることが多いようです。
まとめ
そんなわけで今回は、子どもの自我の発達と、大人の自我とはということについて少し考えてみました。自我について考えなくてはいけないのは、むしろ大人になってからと言ってもいいかもしれませんね。
自我が弱いと、いつも他人任せになってしまう。あるいは、他者から言われたことに関しても、必要以上に気にしてしまいます。なぜなら、自分の中で「これ」という価値の基準とその優先順位がはっきりしていないからです。自我の発育・発展は、したがって子どもだけに限った話ではないということです。
判定基準を決め、優先順位をつけ、それに従って行動するというのが、いわゆる責任ある大人ということになるでしょう。自分で決めている人は鬱にはならないとも、苫米地さんは述べておられます。自分の人生を生きること。いずれにせよ、それが幸せの近道ではないかと思うのです。
我々の心に関すること、いろいろこのブログを通して考える機会をいただいております。そして思うことは、こと心に関しては、「一回達成したら終わり」ではない事象であるなと。学び、育み、離れ、そして戻る。加齢やステージの変化は、その時々で違った心の学びと、そしてチャレンジを我々に与えてくれます。そこがね、本当に面白いなと思うのでした。
自我、探求してみてください。そこは最後のFrontier。