生理現象としての好き嫌い

Likes and dislikes as physiological phenomena

皆さんこんにちは! 年末の空気がだんだんと濃くなってきた12月も後残すところわずか。今年を振り返ってみて、なかなかいろいろなことにチャレンジして、新しいことを始められた年だったなーと感じております。中でもこうしてBlogを書き始めて、自分の学んだこと思うところをアウトプットしているのは、2019年の本当に大きな変化でした。いろんなことを書くことで考えられているなと感じます。

さて今日は、自己肯定感を考えるに当たり、Kusunoko-CIの廻った道筋。「我々の心にはなぜ、自分を含め好き嫌いの判断が生まれてしまうのか?」について思いを巡らせてみたいと思います。自分や人をありのままで受け入れられないと悲観せず、ちょっと読んでみてください。

人の好き嫌い

今回のテーマになってくるのは、前回の「何もしないのに自己肯定感が高まる?」のところでお話しした、「判断」の話です。他人や自分、物事への判断。

判断、つまり人や物事に対する好きとか嫌いのラベル貼りを、我々は常にしていますよね? もちろん自分に対してさえ。「こんな私は嫌い」みたいな。

これはほとんどの人が経験しているのではないでしょうか。心の中で「この人は嫌だな」とか「自分はなんてダメなんだ」と思ってしまったり、あるいはその逆もありますが、人だけではなくて物事にもこうしたラベル貼りというか、カテゴリー分けをしてしまうのが人間です。

自己肯定感のお話はもう何度もしてきましたが、要は他人も自分も、あるがままを視る、同じように尊重していくことが大切だったんでしたね。なにも無理して積極的にポジティブを装って「いいところ探し」などしなくてもいい。むしろ自己肯定感を高めるのにそうした「積極性」というのは足かせになりかねないというお話もしました。風が木々を揺らすように、あるがまま人や自分を「視る」ことが「尊重」ということであり、その尊重がそのまま自己肯定感と呼ばれるものであると。

ただそれがなかなかできないというか、気が付くと他人、自分、事象それらすべてを「判断」してカテゴリーに分け、「好き」とか「嫌い」のラベルを貼っているのが人間です。

その判断、なぜ?

このことを考えるためには、我々の脳について少し知っておく必要が出てきます。

なぜなのか。こうしたラベル貼り=判断というのは、我々の脳の働きによって起こってしまいます。我々の脳の最優先事項は何ですか? そうです「生存」です。

太古の昔、我々がまだ原始の哺乳類であった頃から、遠いご先祖様たちはいつも何かの危険に身をさらして生きてきました。どこかのジャングルやサバンナで、常に何かにおびえながら生活していたわけです。近くで物音がすれば恐れを感じ、なにか動く影を見れば捕食者だと考える。とても興味深いことですが、「楽観的」などという考え方が入り込む余地は、到底ありません。もっと言えば「悲観的」に考える個体のみが生存できたわけですね。「あの音は捕食者に違いない」、初めて見るものも基本は「必ず危険なものであるに決まっている」、そういう慎重に慎重を重ねる認識のできた個体だけが生き残ることができ、ラッキーなことに今の私たちを作り出してくれました。我々は言ってしまえば「ネガティブの子」です。

つまり簡単に言えば、「人という生き物は基本的にネガティブな考え方をする」ということです。そしていざ身に危険が迫れば、「闘争か逃走」のどちらかを瞬時に選ばなくてはならない。一瞬の判断ミスが、文字通り死活問題なわけですね。瞬時に敵味方を判別し、かつ戦うのか逃げるのかを決められたご先祖様。ありがとうございました。おかげさんで私たちは生まれてきました。

つまり、基本ネガティブにかつ何かを判断して身を守ろうというのが、我々の脳が持つ生得的な基本機能なわけです。そしてそれは今もしっかり働こうと頑張ってくれているわけですね(THE21online)。

だから人や物事の好き嫌いを判断しているのも、あるいは自分に対してネガティブに詰め寄っているのも、我々の脳の基本機能に起因するわけです。

マインドワンダリング

そして我々人間はいつのころからか、意識を持つようになった。意識の獲得は言語の獲得ととても密接な関係があります。

うちの息子見ていてよくわかりましたが、言葉が話せないときの人間は、本当に刹那に生きています。「今・ここ」といういわゆる瞑想やマインドフルネスの中で言われているあの理想的な状態です。うらやましいですね。

そして言語を獲得しだしたころから、徐々にストーリーということを体得し始めます。今日幼稚園で何があったとか、楽しかったことが何だった、悲しかったことが何だったというふうに、過去に対して追想を巡らせて行きます。息子の場合今はまだ拙いですが、何かしら想像しイメージの中で生まれたことも説明しようとしています。徐々にマインドワンダリング(今・ここから外れてしまった状態、何か考えている)が始まっているわけです(マインドワンダリングとマインドフルネス)。

人は進化の過程で、言語というおそらく人間をここまで発展させたであろうスキルを得たその副作用として、このマインドワンダリングという、あることないことをイメージの中で発生させる機能も手にしてしまったのですね。

あることないこと

「人は考える葦である」とはパスカルの有名な言葉ですが、これは

〈人間は一本の葦にすぎず自然のなかで最も弱いものである。だがそれは考える葦 roseau pensantである〉。

パスカルは,人間は孤独で弱いが,考えることができることにその偉大と尊厳があるとした。

(百科事典マイペディア)

こうした意識や言語の習得が、人類にもたらしたものは計り知れず、人間のすべての発展はこの言語という偉大な発明と獲得なしには為しえなかったでしょう。

だがしかし。何事もいい面と悪い面はあるわけで、こうしてあることないこと頭の中でめぐらし、ネガティブな脳からの信号を言語化して強化し、人を判断し、自分を判断し、そして今・ここへの集中を妨げる、こういう副産物も我々の頭の中に生み出してくれたわけですね。

ネガティブが脳のDefault setting。なんでも基本は危ないものとみなしたい。変化なんてもってのほか。なんかこう田舎にいる偏屈なじぃさんばぁさんみたいなイメージなのが我々の脳なんですね。

過度期

だから皆さん、心配しないで。我々がネガティブに考えてしまうのも、新しいことにチャレンジしたがらないのも、何か始めようとするとき不安を感じるのも、自分や他人を判断してラベルを貼りありのままを受け折れられないのも、我々の生理現象みたいなもんなんです。おなかすいたなとか、おしっこしたいなとか、眠いなと感じているのと同じくらい原初の感覚ということなんです。でも、いろいろなしつけや教育のおかげで、おなかすいてもある程度は我慢することを知っているし、おしっこしたくてもその場ではしない、眠るのも時と場所に応じて我慢して(時々できないけど)やっているわけですよね。そしてそのことと同じ線上に、このラベルを貼るという判断する行為も存在しているのです。

おしっこしたいことを責めないですよね? 「なんでおしっこなんかしたいんだ!」って。同じです。「なんでありのままを受け止められないんだ!」と思ってしまったら、おしっこと同じと思い出してください。

我々は、情報過多の時代に生きている。おそらく今は過度期の時代なのではと、Kusunoko-CIは思っています。Face to faceのコミュニケーションから、SNSや様々な便利な(!)ツールが人をつなぐ手段として幅を利かせてきた。その中で、今までの生き方、考え方、コミュニケーションの取り方ではおそらく立ち行かなくなってく人が、どんどん増えていくのではと考えています。結論ですが、「我々人は、生き物として生来持っている本能機能をうまくいなさないといけない存在になった。そしてそれは、テクノロジーの発展とともに加速度的に重要度を増してきている」と思われるのです。

まとめ

どういう対処の仕方を取るにせよ、まずはなぜその問題が起きているのかを考えるというのはとても重要です。トヨタのカイゼンも常にそういう態度で現場の問題を扱います。真因は何なのか。問題の本質がわかれば、対処のしようがある。この自己肯定感や「判断」する心のメカニズムも言われてみれば、なんだということかもしれません。

何度も言いますが、おしっこしたくても責めないです。でもこうしたラベル貼りや、そこから生じる自己肯定感の低さは、我々責めるんです。おかしなもんですね。

脳や心ほど複雑なものはないのに、我々は取扱説明書すらなしにこの世に放り出されてしまった。誰かがマニュアルを作って、正しい取り扱いの方法を流布すべきなんです。それが今、脳科学に携わる方々や、自己肯定感カウンセリングなんかを行っている方々がまさにしようとしていることなんですね。

原因がわかれば、対処できる。おしっこしたかったら、トイレ行きます。そういうことなんですよ。

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