何もしないのに自己肯定感が高まる!?

We can develop our self-esteem without doing anything.

自己成長したい、変わりたいと思う人ほど変われないのはなぜなのか? むしろなんだか意気込んでない人のほうがどんどん成長の階段を登っていっているのではないか? そんな風に感じことはないですか? 私はちょっとあります。なぜなんでしょうね。その根本的な理由というのが、自分の心のありようにある気がしてならないのです。

そこで今回は、私の中で最近大きなテーマになって来ている心のありよう=自己肯定感について、何かしら思うところがあったので、つらつら書いていきながら、これがみなさんの自己肯定感というものをちょっと見つめ直す一助になればと考えております。

自己肯定感 持っていますか

自己肯定感とは、そもそも何なのかをもう一度おさらいしてみたいと思いますが、私はいつもこの「肯定」という言葉が少し曲者だと思っているんです。

Goo辞書で肯定を引きますと

そのとおりであると認めること。また、積極的に意義を認めること。⇔否定。

となっているんですけども、なんか積極的なアクションでなければいけない感がしてくるんですよね。

つい最近読み終わりました、水島広子さんの『自己肯定感持っていますか』の中では、「自己肯定感は自分を大切にする気持ちである」と語られています。

このように「大切にする気持ち」というのは、確かに否定はしていないかもしれませんが、なんかこう「やるぞ!」とか、あるいは「いいところをみつけるんだ!」みたいなアクションは感じさせないですよね。

そもそもこの本の中ではいいところを探したって、自己肯定感は高まらないともはっきり言われております

リスペクト(尊重)

その代わり、水島さんが提唱されているのは、「他者のリスペクト(尊重)」から始めようというもので、なかなか私的には斬新だなーと感じました。

ざっくり私なりの見解を書いてみたいのですが、要は自己肯定感の低い人というのは、自分以外の人に対してもけっこうラベルを貼ってしまいがちという。自分の中に「こうあるべき」という強い思い込みがあるがゆえに、そうならない人に対しては「この人は嫌な人だ」「悪い人だ」のような分類わけをしがちであると。

そうしたものの見方をいったんやめて、他人のあるがままを受け入れてみようじゃないか。黒白とはっきりさせる思考回路を手放して、グレーゾーンというものを持つようにする。もちろん、「あるがままを受け入れてみよう」というのは決して何でもかんでもOKとしてしまうことなのではなく、他人が抱える事情というもの考慮してみるということ。

そして、ここからが大事なのですが、いいとか悪いとかの判断をせず、お互いの「距離」を大事にしておく。互いに領域に踏み込まないように心がける、と。

決めつけや判断、Judgementというのは、実は知らず知らずのうちにぐいぐいと他人の領域に踏み込んでいる態度だと、水島さんは指摘します。そして、他人が抱える何かの事情(Behind the scene)を考慮し、その人のあるがままを視る(視るだけです、特に肯定という積極的な心の動きはなしです)。

これが相手を尊重する気持ちであり、いうなれば他者肯定感。そしてそういう気持ちを実践すると芽生えてくるのが、自分自身に対しても「いいも悪いもいいんじゃね?」という自己肯定感

あるいは、自分という存在の「領域」にぐいぐい踏み込んでしまい、自分を尊重しない心のありようが変わってくる感覚とでもいいましょうか。

皆さんもちょっと試してみてください。あんまりトラウマのひどい人とか選ばずに、「ちょっと苦手かも」くらいの人を選んで、まずは「なんか事情があるんだろうな」とか思ってみる。その時もう何かしらの判断(ラベル貼り、Judgement=領域侵犯)というのを一切しない。そういう人、ととらえる。いいも悪いもない。そしたら、その感覚のまんま、自分自身の心ものぞいてみる。

どうです? なんとなく違いに気づかれましたか? 他人に対してこうした目を向けられると(そしてそれが癖になると)、たぶん自分に対しても、見方というのが変わっていくと思うんですよね。

自己尊重感とでもいいますか。なんとも気負わない、不思議な感覚です

自己肯定感を高める、という言葉

この言葉もかなり巷で使われていて、何とも誤解を生みそうだなと感じてしまうのですが。この「高める」とかいう言葉を使うとどうしても、「なんかしなくちゃ」とか思いませんか? 

Kusunoko-CIは、なんというか「努力貧乏性」とでもいいますか、なんかやってないと気が済まない性格とも相まって、変な使命感に燃えてしまうのですよね。

ところが、前にもお話ししましたが、我々深く決意すると、変化に対する抑制シグナルが脳から出ます。「変えちゃダメだって! 死んじゃったらどうするの!?」、これが我々の脳が最も優先度を高く設定して守ろうとしていることです。そうです、「サバイバル」です。

なので、こうして使命感に燃え、なにかを変えようとすればするほど、我々がそれを達成する確率というのがどんどん低くなるというこの皮肉。おもしろさでもあるんですがね。

なので以前紹介した、スモールステップの原理で、脳をちょっとずつ騙しながら変化させていったり。あるいは、逆に何もしないという努力があるということも、我々は知っておいた方がいい。

そもそも自己肯定感の低い人は、まじめな方も多い気がするんです(個人の感想です)。なぜなら、何らかの事情・理由から「であるべき」という固定観念が強いから。だからそこから外れてしまう他人に対して「判断」をし、白いか黒いかのラベル貼り=領域侵犯をしてしまう(他者尊重の気持ちを失う)。

そしてこの流れの中で何度も示唆されてきた「自分」への許容度の低さも、自分の心を低く貶めていってしまうのです。自己尊重(自己肯定)ができなくなっていくわけですね。

生来の生真面目、ベキ論、そしてそのまじめさゆえに努力しようとし、脳に阻まれ、また挫折することで、「できなかった自分」をさらに卑下するというこの負のスパイラル。うーん、なんだか書いてて悲しくなってきますね。

つまりは、ほったらかしとけばいいという結論です。何もしないという努力が存在するということです。ある意味心の5Sです。

何もしない努力

まとめ

実は脳の反応にはもう一つ面白いものがあって、これが「判断」という、他者・モノゴトへのJudgementを生み出しているのですが、それはまたどこかでご紹介しようと思います。

まず今回は、この自己肯定感を生むための「他者尊重」。それは他人をいかなるカテゴリーにも、分類わけせず、ただその人がそういう人であると「視る」。そしてその視線の先を自分に向けて「視る」。そうすることによって、自己尊重=自己肯定の気持ちがはぐくまれていく、というメカニズムです。

いかがでしょうか? 何もしないということに、実は大きなヒントがある。少し肩の力を抜いてください。昔言われた「がんばっちゃだめ!」という言葉が、最近少し分かってきた気がしました。

書いてる今日は、実はクリスマスイブ。Kusunoko-CIからの皆さまへのクリスマスプレゼントでした! Merry Christmas!!

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