書けば海路の日よりあり

Writing is thinking.

皆さんは一日にどれくらい考えていますか? これはあるコンサルタントの方が、彼のセミナーでまず参加者に問いかける質問です。この質問、最初は多くの参加者の皆さんが「2,3時間かな」とか「いやもっと、5時間くらいは」なんて言うそうです。ところが、その方が「人が考えてるのは書いているときだけ」と続けると、「20分もないかもしれない」などという答えに変わるということで、我々純粋に何かを書いている時間ってなかなかないですよね。書いていることがイコール考えているなら、考えるってのは少し特殊な行為のはずです。

そこで今日は、この「考える」ということをテーマに、Kusunoko-CIが「考えるとはいったい何なのだろうか」と考えてみたことをまとめるお話です。

考えるとは

そもそも考えるとは何なのか。この考えるGoogleさんに聞いてみると、と答えてくれました。

1.あれやこれやと思いをめぐらす。その事について、心を知的に使って判断する。

「よく―・えて物を言え」

2.新たなものをくふうする。考案する。

「もっとうまい手段を―・えよう」

うん、2番目に関しては違和感ないです。が、「1.あれやこれや思いをめぐらせる」の部分については、何かちょっと違うかなと感じるものがあります。これは「思う」ではないですかね?

考えるvs.思う

ここで考えることと思うことの違いを、私なりに検証してみたい。

この「思う」というのは、とくに何か能動的な心のアクションがなくても、何かしら我々の頭の中に、時には勝手にわいてくる雑多な情報の群れではないですかね。それは記憶とも相まって、何がトリガーになるのかわかりませんが、浮かんでは消え、浮かんでは消え。

歌や音楽であることもあるし(ループしたりしてる)、何かのイメージなこともある。映像だったり、あるいはいい・悪い・普通の思い出であったりします。別に何かを意図してはいない。その先に脳を働かせるきっかけになることは、もちろんありますが。

だから、いつでも起こり得るし、特に脈絡もなかったりする。寝る前に発生すると、無限ループで眠りを妨げたりすることも多々ある。あれ、うざいですよね。「もう考えない、もう考えない」とか思いながらまた湧いているという。

これに対して考えるというのは、もっと能動的な行為だと私は思います。そして多分に2番の要素が入り込む。何かを作り出すため、アウトプットのためです。なので「その事について、心を知的に使って判断する」という部分はわからなくはないかな。

以前も「アイデアのつくり方 How to Create Ideas」でご紹介しました、井上ひさしさんの言葉です。考えるとは「無限の無秩序連続体に言葉でもって切れ目を入れていく行為」であるという。私は最近、この世界にある言葉という言葉・概念という概念を、ひとつひとつ丹念に取り出しては自分なりの定義を与えていく行為、これが「考える」ということではないかと思うようになりました。事象を自分なりに切り取り加工する、といってもいい。あるいは、自己を包んでいる世界というものを、対話を通して自ら(再)構築していくアクションということもできます。大事なことは「理解する」ということだとも思います。

考える=書く

そんなわけで、冒頭に述べた、考えること=書くこと、というのは一理あります。なぜなら、書かずに考えることは、ただ雑多に思うことに堕ちていってしまうからです。先ほども説明しましたように、思うということは、あまり我々のコントロールにない場合が多い。こっちからあっちへ、過去から未来へ脈絡あるような内容な飛び方をしてしまう。これでは、何かのアウトプットを出すための行為として効率的とはとても言えないわけです。しかも「あれ、今何思ってたっけ?」という時さえある。

一方書くということは、論理を問われます。書いて、読み返してみれば筋が通っているのかどうかはすぐにわかる。書いて、特にこのように世に出すならば、そこには「間違ったことは書けない」という責任もついて回ります。

私がこうして書くことを選んだのは、まずはもちろん何かを書くということが好きであったためです。そして何より、インプットを精錬するためのアウトプットが欲しかった。Input:Output=3:7というのはご紹介しましたね。こうして毎日、自分のInputを、Outputを前提とすることでより高めていく。そして皆さんの生活やお仕事・英語学習などに少しでも役立つ情報を書いて発信することで、まさに自分の「考える力」というものを向上させていきたい。そういう思いがあります。

おかしな点はないか、付加価値はついているか、ただの焼き直しではないか、読んでいて面白いか。こういう判断基準はいやおうなく書くこと=考えることの精度を上げます。純粋に面白いです。筋トレみたいな感じがします。

考える方向性

ここで少し、考える方向性についてもお話してみたいと思います。

私は以前から「思うこと」(考えていたわけではないですね)が好きでした。ところが、どこでどう間違ったか、一般に「考えても仕方ないこと」と言われることを探求し始めた。「死」とか「生きる意味」ですね。こういう癖は、小学生の頃からずーっと続いていたんですが、夢破れた際にまた大きく育ってしまった。

そして自分自身の持つ「価値」について思いを巡らせるようになってしまいます。そうです、絶対やってはいけない、「他者と自分との比較」を徹底的にやってしまったんですね。

このあたりの挫折ヒストリーについては、「打たれ弱くても大丈夫 、最短で挫折から立ち直るには」に詳しいのであまりここでは触れませんが、それはもう人生の一番ひどい時期でございました。

ですので考えるのはいいことですが、方向性には気をつけましょう。あらぬ方向に向かって、人生無駄にすることがありますよ。建設的に、ハッピーに、自己を肯定しながらがルールです。

「世界は本のページである」

ところで、そうしたあらぬ方向と決別したきっかけも少し。

4年ほど上記のような思いと格闘した挙句、1冊の東洋思想の本と出合ったことで、視界が大きく開けたのを今でも覚えています。残念ながら中身のどんな部分だったのかは忘れてしまったのですが読了後、「世界や宇宙とは、この本のページのようなものだ」と思ったのを記憶しています。そして、「ページに書かれた言葉(文字・文章)、これが我々の思考や科学だ」という感覚です。

なんだかよくわからないですよね。

つまり、世界というのは、そもそも我々が対峙しないと存在しないわけです、我々にとって。そして向き合い、手を尽くして、理解しようと言葉を紡ぐ。あるいは数式を書きいれる。しかしながら、それらがすべてのページを埋め尽くすことはなく、どこかに余白というものがいつも必ずある。そして我々は、その余白がどれほどなのか、行間がどれほどなのか、あるいはページ数やサイズがどれほどなのかも、実のところ全く分かっていない。わかったような気がするのは、そこに書かれた文字を読んでいるから。

今ある膨大な知識や情報(それはそれでとても貴重な人類の財産なわけですが)だけで、この世のすべてがわかったような気になるのは、まったくもっておこがましい。我々は今日も必死にそのページを埋めるよう文字を書きいれる努力はしているが、すべてのページを埋めつくすことはできない。そして埋め尽くす必要も実はない。

自分や世界とはそういう、本のページのようなものだ。とまぁこんな感じです。伝わるといいのですが。

あとから思うと、本当にあれが人生の一つのチャプターを閉じた瞬間。本当の意味で周りに目が向かい始めたきっかけだったのではと思います。

まとめ

さて今回は「考える」ということについて、考えてみたお話しでした。いかがでしたでしょうか? 以前ご紹介した「あの人はなぜ東大卒に勝てるのか」の著者津田久資さんは、創造とは、「論理という名の『橋』を作った先にある、最後のジャンプ」だと述べられています。論理を尽くせば尽くすだけ、我々の着地はより遠くへと届くことになります。書くという行為は論理の積み上げ。言葉を使って「本気で考えつくす」というアクションです。その先に初めて、「創造力」という新しい領域が見えてくる。「論理思考は直観を補助するもの」だとも同書に書かれておりました。

皆さん、書きましょう。「書けば海路の日よりあり」。世界を少しずつ理解するこの作業、面白いですよ! そしていつかは私も、創造力という大きなジャンプを手に入れたい。

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